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同じ檜皮葺 ( ひわだぶき ) の屋根でも 春日大社と違って 濃い茶色で 締まったような感じ。 こげ茶色の柱と白壁。 平安というより厳しく チョット武家の雰囲気がするような… と思ったら、 やはり江戸時代( 寛永、文久 )に 建て替えられたものでした。 御手洗池と 御手洗川。 美しく 丸く反った 輪橋。 あちこちに大小の磐座( いわくら )と 細いしめ縄。 そこここに その場所にちなんだ 和歌のしるされた立て札。 いわれについて書かれた説明文。 古典に興味がなくても ここではスッと胸に入ってくる感じです。 奥には大炊殿( おおいどの )という 神饌( しんせん )を 調理する建物。 明治までは 実際に 使われていたところ。 いまは 調理道具や 古代から伝わる 神饌の模型が 展示されています。 その奥の和室からは カリンやざくろの木の自生する 「 葵の庭 」ごしに 御本殿が見え、ホッとする 空間です。 ムズカシイ話は 抜きにしようと 思うのですが、こちらの歴史、知れば知るほど 関わった 人々の想いが ひしひしと伝わってきます。 |
古代の賀茂氏下鴨神社【 賀茂御祖 ( かもみおや )神社 】は上賀茂神社 とともに その起源は 紀元前(今から2000年以上も?!)にさかのぼります。 もともと 賀茂氏という古代氏族が おまつりしていました。 賀茂氏は 葛城氏と関係が深く、山や川沿いに 山城の国を開拓していったそうです。 また 渡来人の秦氏とも 交流があったようです。 朝廷は 秦氏と 賀茂氏の協力のもと、京に都をおきました。 そして、そのあとは下鴨神社、上賀茂神社を 都の守護の神として 自ら おまつりするようになったとのことです。 ですから、東京に都が 移ってからも、 戦前までは伊勢神宮に次ぐところとして 特に大切にされてきたそうです。 |
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賀茂の斎王 賀茂斎院の制平安京の 守りの神を おまつりするために、 810年から 始まったのが「 賀茂斎院の制 」で、これは 伊勢神宮 に 対する 斎王( さいおう・ 神事に奉仕する皇女 )の制 に ならったもので、 選ばれた 皇女が 下鴨神社、上賀茂神社の 神事を 司る制度です。 斎王に 選ばれた皇女は、他の皇族から離れた御所に 生活し、葵祭などの 重要祭事 のときに 下鴨神社の 斎院御所に。 昔は そのくらい神事が 重要なもので あったらしいです。 五穀豊穣 であるために、都の災いを避けるために、 政治的にも 大事なこととされたようです。 平安時代は 斎王の社参、 葵祭の 華やかな行列が 盛況になり、 祭といえば 賀茂祭、と貴族たちも 祭見物に繰り出したようです。 (『源氏物語』 葵の巻) 平安末期になって 武士が台頭 してきます。 そのころに 下鴨神社の 神職の家柄に生まれながら、数奇な運命を たどったのが 鴨長明です。 平清盛 の福原京 にも赴任し、源実朝にも 会っています。 和歌に優れた素質を もちながら 勢力争いのために、 神職に就くことが出来ず、出家して『 方丈記 』を 著します。 この 時代の変わりめを生きた鴨長明が 亡くなった頃に、 約 400年 続いた賀茂斎院の制も 廃止に。 その後の戦乱で、社殿も 焼失し、祭も 途絶えます。 でも、神事だけは 伝えられ、江戸時代には 祭も復興。 1956年からは、 斎王代 ( 斎王の代理 )、女人行列が 復興されて 今に至っています。 もと 斎院御所の あったあたりの 大炊殿 ( おおいどの )から 「 葵の庭 」 ごしに 御本殿の 方を ながめていると、 自分が その時代にいたような… 斎王と 呼ばれても まだ10代の少女だった 皇女たちは どんな想いで、 ここから 拝殿に 向かったのかな… と思いました。 |
下鴨神社 【賀茂御祖神社(かもみおやじんじゃ)】 ・世界遺産 山城国一の宮 ・御祭神 賀茂建角身命(かもたけつぬみのみこと) 玉依媛命(たまよりひめのみこと) ・摂社・末社 多数 ・京阪出町柳駅から歩くのがオススメ。最寄りのバス停は糺の森 または下鴨神社前 ・京都市バス、地下鉄については → 京都市交通局 縁結びのご利益で知られる楼門前の相生社では、女性参拝者が熱心に お参りしてます。 帰りに休憩というときには下鴨神社バス停近くの『 加茂みたらし茶屋 』が オススメ。 黒砂糖のちょっと甘いタレ。餅も自然でおいしいです。 |
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