ここ最近、行ってみた 神社について地図を 作成しました。 また、今までに わかったことについて 少し書いてみます。 最初は春日大社、 生田神社に行き始め、 その景色や雰囲気が 気に入って 何度か 訪れました。 そして由緒書などを 見ているうちに いろんなつながりが わかってきて、 それをたどってみようと 思い立ちました。 (1)神戸から阪神間にかけての神社は、出雲系または、山岳宗教系が多い生田神社のご祭神は、稚日女尊(わかひるめのみこと)で、天照大神の妹神または、稚く瑞々しい日の女神様であり、伊勢神宮におまつりされる天照皇大神の御幼名という説明がなされています。最近知ったことですが、稚日女尊は丹生都媛(にぶつひめ)と関係が深いか、または別名の同一神のようです。 丹生都媛というのは山深い地の水の神であり、水銀鉱床、古代のたたらの場所などにおまつりされているケースが多いです。 生田神社は元は布引の滝の近く、今は新神戸駅となっているあたりの六甲山系の山あいにあったそうです。 ですから、山深い地の水の女神がまつられるわけがあったのかもしれませんね。 また、西宮市の越木岩神社の杜の奥にはいくつか磐座(いわくら)があり、その一番奥にはやはり、稚日女尊がおまつりされていました。 そして六甲山系全体の守り神という記述とともに、白山姫【菊理媛(くくりひめ)】が小さくおまつりされていました。 この神様は、石川県の白山の神で、白山は泰澄が開山した古代の山岳信仰の中心地のひとつです。 神戸の六甲山から、西宮にかけては険しい岩場が続き、所々に古代からの磐座があったり、密教系の寺院や、高地集落の遺跡があったりします。 どうやら、古代のこのあたりは、今の神戸から北大阪、京都、奈良へと山づたいに交流があり、宗教や文化のつながりがあったのではないでしょうか。 敏馬神社の本来の主祭神は罔象女神(みづはのめのかみ)という水の女神であり、摂津の三草山から来られたという伝承があります。 この神様も本来、山地の清流沿いにおまつりされることが多いのですが…。 古代の朝鮮半島からの使節を出迎えるときは、「生田で醸した酒を敏馬で賜った」とのことですが、これは宗教的な面以外にも、それぞれの地の特定の氏族が、大陸との交流に携わったという政治的な意味合いがあったのかもしれないと思ってます。 もうひとつ多い伝承が神功皇后についてです。 神功皇后の伝承は一個人のというより、ある氏族集団や大陸からの渡来人との交渉の伝承のように思います。 生田神社やその裔神である八つの神社を巡拝されたとか。 巡拝というのは今風にいえば、その地にいる氏族を従えたか、または自治を認め、表敬訪問をしたということかもしれません。 生田神社、敏馬神社の他にも、弓弦羽神社、本住吉神社などのゆかりの神社があります。 出雲系といえば、このあたり、とくに山沿いはご祭神が素戔嗚尊(すさのおのみこと)のところが多いです。 また、神戸・東灘区の綱敷天満神社は、出雲系の祖神である天穂日命(あめのほひのみこと)をおまつりしています。そして山手の鎮守としての白山権現(菊理媛)の伝承も伝えています。 また、三宮の一宮神社の末社に 伊久波(的=いくは)神社が あります。 この「いくは」という名は、3〜4世紀頃、今の神戸・葺合のあたりを 開拓した 氏族の名から きてるようです。武内宿禰の子孫の 葛城氏の一族。 もしかして「生田」の地名の語源かもしれませんね。 (2)遣隋使、遣唐使の航路
当時、船で大陸へ向かうのは大変危険で、現在の春日大社や住吉大社で祈願をしてから、難波の津を出航しました。(万葉集・巻十九) そして振り返って大和の山々が最後に見えるのは敏馬神社の敏馬の浦でした。 この航路は、六甲山や摩耶山から海を眺めるとほのかに想像できます。 (3)大和から山背国(山城国)へ
いままで訪れたところ、気になるところをいちど地図上で見てみたかったのですが、東大寺、春日大社、石上神宮、大神神社…そして比叡山が南北にほぼ一直線上に並んでいるとは気づきませんでした。 東大寺の「お水取り」は有名ですが、この東大寺のさらに真北には、昔から「お水送り」の神秘的な神事を続けているところ、福井県小浜市遠敷(おにゅう)川の「 鵜の瀬 」というところがあります。 といって、それ以上の意味については今のところわかりませんが…。 比叡山の神社、日吉大社には天智天皇7年(667)に大和国三輪山の大己貴神(大物主神=大神神社のご祭神)が大津京の遷都にあわせてうつしまつられており、その後も長岡京、平安京と都が山城国に遷されるのを機に多くの氏族やご祭神(神社)も移動していったようです。 (4)賀茂氏と秦氏、そして…賀茂氏は葛城山を中心に祭祀の分野などで活躍した古代氏族です。 この賀茂氏がしだいに北上して、山背国(山城国)に至り、賀茂上下社を創建したという説もありますが、山背国(山城国)と葛城の賀茂氏は別系統であるというのが通説となっています。 ただ大和から山づたいに北へ、または木津川を下って北上して、淀川との合流点からさかのぼって桂川、鴨川を上るルートで何らかの交流があり、文化や人々の移住が行われた可能性は高いのではないかと思います。 山背国(山城国)ではいくつかの地域ですでに秦氏が開拓と祭祀を行っていましたが、賀茂氏の上賀茂神社、下鴨神社、秦氏の松尾大社(賀茂の厳神、松尾の猛霊)が大内裏を両方向から守る王城鎮護の社として、遷都当初の朝廷から厚い崇敬を受けるようになりました。 その後平安時代には、災厄を払うために祭祀が行われ始めたり、守護のために都の内外に神社を建立されるようになります。 たとえば、京から離れた淀川下流の、今の大阪府守口市に守居神社という神社があります。 こぢんまりとした社ですが、ご祭神は素戔嗚尊、そして上賀茂神社と同じ賀茂別雷神(かもいかづちのかみ)で、918(延喜18)年の創建。当初は王城鎮護のために都の方向、北東に向けて建てられていました。淀川の流域には、そのような神社が他にもいくつかあるとのことです。 神社をめぐっていくうちに、偶然、伝承が関連づけられてつながったり、人や野鳥や鹿?との出会いもありました。 聖徳太子の伝承、山岳宗教の伝承にも興味があります。 「点から線へ」 また、偶然がつながっていくことを楽しみにしようと思います。 |
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