生田神社
祇園神社
子供のころにときどき行った平野(神戸・兵庫区)に久しぶりに行ってみたら、
山ぎわに鳥居があり、急階段の参道が続いてました。

そこは祇園神社。 夏祭(祇園祭)の日でした。
近所の人たちが家族連れで、大ぜい階段を上ってお参りに訪れています。
 
 
祇園神社参道
祇園神社参道
地味な感じの神社なのですが、坂の下には縁日の屋台が続いています。
 子供はおいしそうなにおいの店で、何度も立ち止まろうとします。

   「買うんはお参りすんでからやで。 わかっとお?」
  母親のことばにうつむいて我慢して店の前を通り過ぎる5才くらいの子。

神戸は東西に延びた六甲の山々が海にせまっています。
そしてその山の中腹に沿って古くからの神社がいくつか残っています。
元は湧き水の地であったところも多いです。

まるで大きな酒樽の底にいくつかの穴が開き、ゆっくりと良い気が吹き出してくるような… 
ですから、それをわかっていた当時の人たちはお祀りしてその場所を大事にしたり、
その時代時代で、街が栄えることになったのかもしれないですね。


                   
祇園神社
     祇園神社
階段の上まで登ると意外と広い境内、こぢんまりした拝殿や本殿がありました。

  にぎやかで平和なお祭りの雰囲気です。小さな子供たち、家族連れが多いです。

     階段の途中に石碑がありました。幕末に勝海舟が軍艦奉行として
     神戸に来たときに、この地の庄屋、生島四郎が勝の補佐をしたという
     内容でした。

     江戸の人、勝海舟がここで活躍したのは偶然かもしれません。
     でも、勝は自分は、(古代大和で神道系の役割を担った) 物部氏の末裔だと
     話していますので、やはり何かご縁があったのかもしれませんね。

     将軍兵庫巡視の石碑を生島四郎に建てさせていますが、今は諏訪山公園・金星台の神戸港を
     見晴らせる場所にあります。
     「軍艦奉行 安房守 勝 物部 義邦」の銘が読みとれます。 (くわしくは→勝海舟語録 氷川清話


 振り返ると、まっすぐ向こうにうっすらと神戸の海が見おろせました。昔はもっと景色がよかったのでしょう。

     また、このあたりは祇園遺跡といって平清盛が1180年に半年間、都をおいたところだったのです。
     当時の福原京と港である大輪田泊を見下ろすこの地が中心地であり、平清盛の邸宅があったそうです。

 いまの様子からは想像もできませんが、歴史の変わりめの舞台になったところだったようです。


 いちばん驚いたのは、ここが京都の八坂神社と関係があったということでした。

八坂神社
八坂神社 
神輿洗の列を照らす松明に清浄な火で点火

  社伝によると貞観11(869)年京都に疫病が流行ったとき、御霊会(ごりょうえ)という
  神事のため、姫路の広峰神社から京都の八坂神社に御分霊をお移しすることになった
  そうです。
  
  その神輿がこの地に一泊されたので、その後お社を建てお祀りし始めたとのことです。

 そして神輿は四条通・壬生の今の梛(なぎ)神社にしばらく留まったのち、八坂神社へと…。

     ですから、社紋や御祭神は八坂神社と同じなんですね。

 いっぽう、八坂神社の説明を見ると、そのことには触れていません。広峰神社とどちらが
 元であるかの論争が中世にあったためかもしれません。

 確かに八坂神社一帯は平安京遷都以前から渡来人によって開けていたところで創祀は656年とされています。

  
でもそういったことに関係なく、
京都の八坂神社で7月1日から31日まで祇園祭が行われているのと同じ7月に、
祇園神社でも8日間の夏祭りがあります。

故事を大切にして、同じ気持ちで共通のお祭りが連綿と今の時代にまで伝えられているわけですね。

個人的なことなんですが…、

子供のころ何気なく行っていたところが、歴史上の舞台になった時期があったというのを知ったこと、

それが、その場所にある神社に寄ってみて初めてわかったこと、

また、何年か前から、近くに行けば必ず寄っていた八坂神社と関係が深いところと
知ったこと、

それらは自分にとっては久々の驚きと感動でした。


八坂神社西楼門
八坂神社西楼門
境内疫神社より四条通を望む
・祇園神社 http://www.kobe-gionjinjya.com/index.html
・八坂神社 http://web.kyoto-inet.or.jp/org/yasaka/



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