何もなくてガランとした神社には行っても、ふだんは寺院にはあまり足が向きません。 でもそのなかで、奈良時代の寺や、禅寺には自分の「感性」次第で、想像で遊べるような気がするのでときどき訪れます。 |
法隆寺はあまりにも有名すぎて、知ってるつもりで今まで行ったことがなかったです。
年に2回の秘宝展、聖徳太子をかたどったといわれる救世観音立像の公開…
じゃ、行ってみようか…と。
久しぶりに仏像と対面して… (ちゃんと敬語を使わないといけないですね)
リアルで表情もあって、また年月の重みからくる色合いの深さがやはりこわいというのが第一印象。
仏像にはそれを作った人の想いも入っているだろうし、長年にわたって人々によって祈りの心が積み重ねられているように思われて、それらがすべて向かってくるような圧迫感。
以前の自分では感じられない別の静かなこわさも感じました。
それは… じっと見つめていると 鏡 のように思えてくるこわさ。
自分の方が見ているのに、自分の中に仏像の中の何かと同調する部分があるかないか、
じっと見透かされているような感じ。
そしてその同調する部分だけが 鏡 に映されるような感覚。
まだまだ善人になったわけではないんだけれども、
年令の分だけ、少し謙虚になり透明になった部分、
その部分の広さ、深さが、すうっと推し量られるような感覚。
そしてその透明のコップのような部分に、
仏像の透明のコップから水が注ぎ込まれてくるような感覚。
パソコンに置き換えて連想してみると…
ダウンロード、インストールのよう。
最低限の環境が整って、ある程度共通するものがないとダウンロードできない。
そしてダウンロードしても
インストーラを自分でダブルクリックしなければインストールができない。
インストール後、不具合がでないかどうかは心の環境しだいであると。
平安以前の仏像はやさしいです。
そして白鳳時代のものは、なんだか人間技ではない神々しさを感じます。
そう思ったことはありませんか?
いったい白鳳時代の人々の質というのはどのようなものだったのでしょうか。
技術の緻密さ、精巧さに加えて優しさ、人間味があって、なだらかな情感がまるで生きているように優しく伝わってきます。
たぶん毎日、朝から晩まで、一生をかけて作り、場合によっては次の代の者が続きを作り…
そのころの人々の人生観はどうだったんだろう。
生きがいとか、目標とかそんなものを超えたところにあるように思えませんか?
帰りのバスから斑鳩の山に夕日が落ちるのをながめ、反対側の窓の向こう、御蓋山の麓の春日大社にお参りしての帰り道、近鉄奈良駅前の本屋によりました。
そこで偶然見つけて買った絵本が 『光り降る音』。
鳳笙の物語。
雅楽の楽器、笙(しょう)の音色について書かれた叙情的な物語。
(あの雅楽演奏家の東儀氏が繊細な絵を描いてます…。)
笙は鳳凰が翼をたたんだ姿をかたどってデザインされたらしいです。
そのとき思い出しました。 法隆寺夢殿の手水舎には鳳凰の像があったことを。
なんだかその鳳凰がこの本に導いてくれたように感じました。
・法隆寺 http://www.horyuji.or.jp/ 世界遺産
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